ライブというもので頬を叩かれた話
みなさんは、ゆらゆら帝国の「誰だっけ」という曲をご存知だろうか。
もし知らないのなら、聴いてみてほしい。
YouTubeの違法アップロードされた音源を聴くのはよくないから、レンタルショップで借りるか、何かしらストリーミング配信とかで聴いてほしい。
聴いて頂けると分かると思うが、めちゃくちゃおどろおどろしい曲だ。
いや言うほどか、と思う方もいるかもしれないが、小学生の自分にとっては恐ろしかった。
直接本題には関係ないが、自分の実兄は、中学生の頃だいぶ精神がバグっていた。病んでいるとかではなく、バグっていた。
年の近い兄弟・兄妹にはありがちだろうが、その時期、自分はよく兄に虐げられていた。
その虐げのうちの一つが
「真っ暗な部屋に閉じ込めた状態で、ゆらゆら帝国の誰だっけを外から延々と流す」
というものだった。
今思えば、無理矢理にでも部屋を出ればいいし、耳を塞ぐなりなんなりすればいいし、そもそもなぜ電気を自力で付けなかったのかなど疑問は多々あるのだが、とにかく兄は中学生とは思えない腕力で扉を塞いでいたし、自分もただただギャン泣きに暮れるしかなかったのだ。
あのなんとも言い難い、電波で覆われた白い箱に閉じ込めてくるような、わけのわからない恐怖はもう、経験した人間にしかわからないだろう。
しかも兄は、記憶の中では何度か同じことをトライしてきた。
したがって、自分にとってゆらゆら帝国の誰だっけはトラウマソングそのものに。
しかし、不思議なことに、その恐怖を繰り返すうちに、頭から誰だっけが離れないようになった。
なんなら口ずさむようになった。
というか大好きな曲になった。
あれは一種の洗脳だったのだろうか。そういえば兄はよく、ORANGE RANGEや10-FEET、ハイロウズなど、大好きなバンドを自分に勧めてきたっけ。
もしかしたらゆらゆら帝国の誰だっけを真っ暗闇な部屋の中で延々と聞かず狂った行動も、歪んだ音楽の布教活動なだけだったのかもしれない。
長々と前置きを書き綴ったが、本題はこれからだ。
まったく関係のない話を延々としているように見えるが、実は少し関係ある。
時は流れて数年後、精神がバグっていた兄もすっかり穏やかさを取り戻し、拷問(ゆらゆら帝国の誰だっけの件)のことなんて感じさせないくらいの状態になった頃。
自分は付き合いで行ったフェスで、あるバンドに出会った。
ライブによく行く方ならご存知だろう。
大型フェスのタイムテーブルを2〜3個みてみればすぐにその名前を見つけると思う。
京都出身の5人組バンド。
結成から19年経ってなお、メンバーチェンジもなく、オラオラ日本中を駆け回るロックバンドだ。
ROTTENGRAFFTYに関して、ジャンルをこうだと紹介するのは無粋だろうからあえてそういうことは書かない。というか、古今東西の要素が詰め込まれているものだから、自分の乏しい知識ではうまく説明できないのだ。
ライブの特性ならば、とにかく熱い。ぐいぐいと抗えない力で引っ張ってくる。
演奏もMCも煽りも曲も、メンバーの表情筋や汗でえらいことになってる服までもが、熱い。
かといって、上から立って頑張れ!負けるな!を連呼するわけでもない。
俺らだって人間だ、だから底まで落ちることもあった、お前らと一緒だ、と語りかけてくれる。
するりと心中に入りこみ、隣に座って背中をポンと叩いてくれるような、厳しいのにどこか優しくて、いやもうROTTENGRAFFTYのことを話すとなるといっぱいいっぱいになるので一度止めることにします。
とにかく自分は、人生で初めていったフェスで、ROTTENGRAFFTYを観た。
今ではフェスなりライブなりに行くなら、出ているバンドの予習はしていくが、その時はライブなんて未経験だった。
なによりライブそのものに良さを感じていなかっから「あ〜〜足痛いな、早く帰りたいな」なんていう、今思えば流刑もののことばかり考えていた。
そこで現れたROTTENGRAFFTY。
正直もう、そのときなんの曲をしたか、何を彼らが叫んでいたか、どんな表情をしていたかも思い出せない。
そもそもメンバーが誰か、なんてことも、ボーカルが二人いるバンド編成の特殊さについても何も知らなかった。
ただ、とんでもない暴力的な力でぶん殴られたことは覚えている。
ここでいう「暴力的な力」は物理的なものではない。
確かにボーカルのNOBUYAさんはライブ中に人間の頭や肩を容赦なく踏み抜いていくが、そういう意味ではない。
ライブの圧倒的な力と音に、ぶん殴られたたのだ。
とにかく自分はそのあと、夢遊病のように帰宅し、頭の中にあったのはROTTENGRAFFTYのみだった。
ここで冒頭の話に戻る。
自分はROTTENGRAFFTYのライブを観て、
真っ暗闇の部屋で、ゆらゆら帝国の誰だっけを繰り返し繰り返し聴かされたあの時間と、ベクトルや意味はまったく違うけれど、同じものを感じたのだと思う。
ROTTENGRAFFTYのライブを見た瞬間、何も他に見ることはできず、早くここから逃げ出したい、目を背けたいけど背けられない、恐怖と切ないもどかしさを、あのライブの数十分間で、何コンボも何コンボも決められたような衝撃を感じたのだ。
有り体に言えば、音楽による洗脳をその数十分で、完了させられた。
恐怖に近いくらいのインパクトと熱量を植え付けられたのだ。
それから今に至り、自分はROTTENGRAFFTYというバンドを追っている。
今なら、ROTTENGRAFFTYの魅力はいくつも言える。
前述したライブの熱さだけではない。日本に生きる彼らだからこそ作り出せる、和と洋がミンチになって美味しくなったようか曲の数々、激しさに焦点を当てられがちだけど、思いがけなく繊細で詩的な部分も多い歌詞、クール系もミステリアス系もコミカル系も取り揃えてた、まったく個性がバラバラなメンバー、重厚な人間経験に裏付けられた言葉。
けれど、自分が感じたそもそもの魅力は、ROTTENGRAFFTYのファーストインパクトは、やはり言葉では言い表わせない、圧倒的な力だった。
ゆらゆら帝国の誰だっけを真っ暗闇な部屋で聴かされるのと同じくらい、衝撃的な出会いだった。
この文章は、2018年6月11日、ロットンの日を終えた翌日に書いた。
ロットンの日は6月10日に行われる、ROTTENGRAFFTYというバンド名にちなんだライブのことだ。
メンバーもファンも思い入れが強い日で、どちらの気合いもとんでもないもので、ライブは凄まじい熱に包まれる。
2時間に及ぶライブの素晴らしさなんて言わずもがな。
そして自分は、ギッチギチのKBSホールで、幕が静かに降りてきて、荘厳なるステンドグラスが目の前に降臨したあの瞬間、
そしてその神なるステンドグラスを背にもまったく負けないROTTENGRAFFTYを観た瞬間、初めて覚えた衝撃を思い出した。
逃げ出したい目を背けたくなるくらいの、立っていたくなくなるような、衝撃。
こんな感情を、好きになってからある程度経つ今ですらも感じさせてくれるROTTENGRAFFTYというバンドが、怖いくらいに思う。
そして何様なんだという話だけど、今ROTTENGRAFFTYが回っているPLAYツアーか、10月3日に行われる武道館ファイナルを、この文章を見て少しでもROTTENGRAFFTYをいいなと思ってくれたら、観に行ってほしい。
いや本当に何様すぎるけど。
もしかしたら、自分と同じように衝撃を覚える誰かがいるかもしれない。
人生をぶっ叩かれるようなえらい力にひれ伏しながら、笑ってしまうことがあるかもしれない。
またあの夏がやってくる
今年も7月6日がやってくる。
何の日かというと「劇場版 銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ」が公開された日。
アニメや漫画に全く興味がない人からするとそれが何だという感想しか出てこないと思うが、生粋の銀魂ファンからすると、とても意味のある日だ。
そもそも銀魂の劇場版アニメというのはとても少ない。
連載開始から6年ほど経ち、満を持して叶った1作目の「劇場版 銀魂 新訳紅桜篇」2作目の完結篇。
ワンピースやNARUTOなど、ジャンプの大御所漫画だと毎年の風物詩的に劇場版が公開されていたが、銀魂だと、現在はこの2作だけ。
1作目の新訳紅桜篇は、原作ファンからも人気が高い長編「紅桜篇」に、別視点を加えたもので、とにかくアクションのド派手さ、主人公・坂田銀時と、その旧友である桂小太郎、宿敵となったかつての仲間・高杉晋助との戦いのままならなさ、銀魂アニメを物語る上で欠かせないロックバンド・DOESによる主題歌が絶妙な味わいを見せる素晴らしい作品だった。
そんな新訳紅桜篇から3年経った2013年7月6日、完結篇は上映された。
なにしろ前作から3年経つわけで、正直2作目が発表されたときは意外というか、まさかこのタイミングで……という感想だった。
しかも「完結篇」と銘打たれたタイトル、発表されたときはただただ心がざわついたのを覚えている。
完結篇のビジュアルや情報は小出しに出されたが、とにかくファンが驚いたのは、メインキャラクターたちの変貌だと思う。
常に活気あふれた街「かぶき町」は寂れ荒れすさび、
江戸を守る警察・真選組の幹部、近藤勲・土方十四郎・沖田総悟は隊服を脱ぎ、
原作の時点ではまだ16歳の少年だった新八と、14歳の少女である神楽が、5年の歳月を経てすっかり大人の男性・女性に成長したビジュアルは、かなりの衝撃だった。
あくまで自分の記憶で言えば、 この前情報で
「攘夷戦争が再び起こり、幕府が転覆させられ、江戸が戦地になった」とかそういう、本当にもう貧しい想像しかできなかった。
が、実際はそんなありきたりな想像なんて簡単に超えられた内容だった。
完結篇の詳しい内容は、これを呼んでくれる奇特な人がいるならば実際に確かめてほしいし、銀魂ファンがここに辿りついたなら既に知っているだろうし、割愛します。
だけど自分は、あの映画をはじめて映画館で観たとき、なんだか家に帰りたくなくて、しばらく映画館でうろうろしたのを覚えている。
やるせなくて、その気持ちをどうしかしたいけどできないというような。
「なぜ漫画家になったか」という質問に対して
「漫画やアニメが終わると、取り残されるような気持ちになった。それは苦しいので自分が作る側になることにした、取り残される側よりは取り残す側になろうと思った」とかなりかいつまんだ形だが、そのような回答をしていた。
その回答を見たときはそういうものか、さすが創作する人の感覚は違うな、なんて感心していたけれど、完結篇を見て、映画館を出た後
「空知先生はたしかに取り残す側に立っているのだな」と実感した。
はっきりと、人の心をかき乱し、握って、わたしたちをこちら側に取り残していった。
完結篇が公開されてからもう5年が経つ。
それ以前の人生の方がはるかに長いはずなのに、蝉が鳴くたび、暑さに目をしかめるたび、あの映画館で覚えたやるせなさばかり思い出す。